チャットモンチー脱退の暗示
チャットモンチーをバックナンバー順に昔の曲から歌詞を見ていた日のこと
私を少し紹介すると、アルバムを買ってもあまり歌詞を見ないタイプの人間である。
それは普段から色々と考えてしまう性格で、 歌詞までみたら余計に思うことが増えてしまうからだ。特にチャットモンチーを聴く時がそうだと思う、そんな聴き方をしてもう7年以上になる
ここから本題、前置きが長くなったが歌詞を追っていく中で脱退を示唆した曲を見つけた。それがアルバムYOU MOREに収録された「草原に立つ二本の木のように」である。
(ちなみにチャットモンチーはこの次のアルバムで3人から2人に変わった)
作詞は高橋久美子、元チャットモンチーの彼女。この詞のなかで高橋久美子はチャットモンチーというグループを傘で表現している。
気になった箇所を抜き出してみると…
あなたという傘の中
雨のない世界もいいけどね
この小さな手で
つかみたい花を 見つけてしまった
あなたという傘の外
虹の射す世界を 見てみたい
この波打つ胸に
誓いたい決意 明日の自分
まだ何も舗装されてない
あぜ道を一人で行きたい
春には 泥だらけの足元
たくさんの花を 咲かせてみせるから
とある。
かなり端折ってしまったが、その後彼女は作家、作詞家としての人生を歩んでいる今を見ると、妙に納得してしまうのだ。
特に決意という言葉が良い、英語ではdetermination。「Undertale」というインディゲームを遊んでから知った良さも後押しして、良い言葉だなと思う。
こんなに希望を胸に持っているなら、2011、12年当時は脱退に関して悲観しなくてもよかったかもしれない。もちろん今思えばだが。
新しくできた高橋久美子のホームページを、複雑な気持ちで見ていた高校時代が懐かしい
2018年にチャットモンチーは完結という名で締めくくったが、私もそろそろチャットモンチーから卒業したいなと思う。それは3人のことを忘れるわけではなく、新しい1歩を踏み出すためにも(どうせ社会人になるし)、気持ちをまとめておきたい。
新しいものが生まれていくのは嬉しいことのはずだから
ラストライブの帰り道に考えたこと
資源は限りあるように思うから、少しずつ切り崩しながら生きるような所がある。
チャットモンチーが完結した後、読める文章やアルバムはすぐに開かず、少しずつ少しずつ消費していった。今日ようやくアルバムの歌詞カードに書いてある2人の作文を読んだ。とても楽しみにしていた一品で、内容は素晴らしいからここでは書かない。
少しずつ消費していくのは我ながら貧乏性だなと思う。プリンが一個あったとして、全部食べずに冷蔵庫に残しておくことに似ている。妹を見てると似てるわーなんて思う。ずっとおいしく食べたい気持ちは誰にでもあるはずだ。
貧乏性の自分が、限りある資源を有効に使うにはどうすれば良いだろうか。まだ出来ない事だけど、資源を削り別のものを生み出すことができれば…。初めはバターだって塊では食べれないから、パンに塗って食べるでしょう。ゆくゆくは一つの食材から分解して、色んな料理を作れたらなぁと、昨日本屋のコーナーを見ながら思った。
ところでチャットモンチーは完結したけど、ぴかぴかの資源を見て切り取った人達はたくさんいるように思う。その人達が上手く料理を作ると、これほど楽しいことはない。貧乏性の自分を納得させてあげるには、今のところ一番だと思った。これなら完結も悲しくはない。なぜなら形を変えて続いていくから。
ラストライブ帰りの夜道に考えた気持ちが、文字になって昇華した瞬間でした。
ほんとにどうでもいい話
初めて夜行バスに乗った時のこと
熟睡は出来なくて 片方にイヤホンをつけたまま
同じ若者がたくさんいるのは お金がないからだろうと思った
「耳鳴り」の中のチャットモンチーは
田舎から都会への移籍、甘くはないよって感じつつ 辛さも作品に昇華してしまう強さがあって(これがプロかと思う)
将来 自分にもこんな気持ちがあったと思い出せる時が来た時、美味しいお酒が飲める人は、どんなに嬉しいんだろう。耳鳴りを聞いてるおじさんがいたら 是非話が聞きたい。
10年以上前のアルバムだけど、過去のその人の年齢に追いついたり離れたりして ぼんやり考えることがある…
意外と1番のお気に入り曲はプラズマだなと思いました。言ってる内容というより、この発想ができるこの人たちが好きなんだと思う
そこに惚れるとどうしようもないよなー
なんて人に言われたり考えたりして、自分の性質を理解する
例えば文字でも残してばらばらな人の時間が重なれば、自己満足できるな。満たされるな。
以上、好きなものの話でした
歳をとること
十代の頃、歳を重ねることは特別なような気がしてた。新しく生まれ変わるような感覚。今までとは違うんだってそう信じてたし、自分にとっては初詣の感覚と何ら変わらないのかもしれない。その一瞬を記録したくてよく日記に書き起こしてた。(今でもそう)
でも特別な気持ちは、二十代になってから薄れてきてるように思う…
今日二十歳の誕生日の人がいて、書いてたブログのかたまりごとが心に残ったからこうして影響受けて「考えを書き起こす」という面倒なことをしてるんだろう
気になったワードは居場所や環境のこと、闘っていきたい。よく覚えてる言葉は 息をするのが楽になった 。
勝手ながら、そう言えるのは本当に良かったと思ってしまったよ。生きづらさを感じてた人が少しでも息がしやすくなる瞬間は光みたいなもんだと思うし、それはほんとによかったなって
後悔はないと言い切れる格好良さも見習いたい。男前だ
いつもはじまりは衝動でやっちまうから文に着地が見つからない
これを書いてる自分はそういえば二十一歳で、なんだか長生きしたような気がする、若いのに。
想うだけじゃ繋がれないし、願うだけじゃ叶わない それも分かってるつもりだけど、つもりなりに過ごした二十一年は自分だけが肯定してやりたいと思う
これからも変わり続けたいとは思いながら大して変わらないような毎日を、繰り返してくんだろうな。でも絵を描いてる時や人と繋がれた時、夢中になる時は「今までと変わるかも」と思えるんだろう
人付き合いが強い方ではなくて、でも昔から今日までに、自分と付き合ってくれる顔が思い浮かぶ友人がいて。みんな道がバラバラの方に進んだのにずっと接点があるのは、とても幸せだ。定期的に思う
全然関係ないけどライブに遊びに行けてないからそろそろ行きたいね
いつも創作のヒント探してるから誰か誘ってください、割と好き嫌いしません
なんでもね
一緒に歳をとる奴らに負けたくない、というより尊敬する友人に追いつきたいなと思う日々です。今年はあと何が出来るだろうか
誕生日は振り返るきっかけができて良い
でも思い立つきっかけがあればそれは何日でもいいんじゃないかと思います
今日はここまで
Curtaincallsが何故良いのか少し分かった気がしたので教えてあげたい件
初めて書く投稿なので適当に見てください、初めましての方よろしく(真面目な文章書くよ)
突然ですが、高校生であろうと大人であろうと憂鬱な日ってあると思うんですよね。僕はありますよ、天気が曇りなだけで落ち込む日があるくらい。ナオトインティライミはどうか知らんけど…
2017年の5月ごろ、3ピースのCurtaincallsという憂鬱な雰囲気漂わすバンドに出会いまして。全員19歳、若いけど年下と思ったことはない3人。(常に笑顔のドラム、対称的なギター、紅一点のベース&ボーカル)
ライブ後の帰り道に書いてるので簡潔に書きたいのは
「限界まで攻めてる人達」
ということ
聴き続けてるのはギターの音がどハマりで、好きになるのに時間はかからなかった。ドラムも本気で叩くし、声も本気で出てる。当たり前の事かもしれないけど、でもこんなに真摯で全てをぶつけるのが"伝わった"人はCurtaincallsだなと思う。それは10代最後だからかもしれないし、音楽で食べていきたいと思ってるからかもしれない(情報過多の時代でプロを目指す決意ができるのは容易じゃないし 全て失くしては名曲)
いつも見ていて息をするのが忘れるくらい苦しくなるんですが、それは演奏の格好良さに圧倒されてなんかな。憂鬱なんだけど、後を引かないしバランスがとれてる。ジメッとしてない
迫力が凄くてやっぱり圧倒される
友人に誘われたのをきっかけにちょいちょい近場のライブハウスに行くようになって、少し比較できるようになったのでブログを書きました。
楽しい音楽があってフェスみたいな盛り上がるのも最高ですが、自分の好きなバンドは、自分の何を変えてくれんだろ…
というのを考えた時、聴き続けれる音楽があったら幸せだなと思います
2nd Single「一瞬の輝き」が出ててほんとそのタイトル通りだとも思ったし
10代の時は限られてる(時間って増えないから)。全国ツアーがファイナルの今日、見た事ない演出が増えてて、工夫を凝らし続けるバンドなんだなと。だから次は今よりもっと良くなっているだろうと思う
CDもいいけどライブが特にオススメです
今日はここまで